自分なりで見る「表現の自由」とはなんだろうか。

2020年3月9日:雑談

Twitterではアニメや漫画からゲームの「表現の自由」云々はたまーに触れてしまう案件でもあって…。
ある意味。昨今「定期便」と化している日々です。
しかし、表現の自由を社会的角度や差別的要素で犯す行為っていうのは、ネットの一部の世界線でも見ることはありますね。

さて…。私自身も大層なことは言えません。法律家でもありませんから。
そこで『個人で見る「表現の自由」とはなんだろうか。』ということで、すずなりに書てみようと思います。

注意!

これは尾咲すずの私見天国なので、私見と思っていただいて構いません。
そうだ。文句や色々あると思うが。それはそれ。これはこれだ。
それにわたしは法律家でもない。

法や表現の自由といった定義関係

「表現の自由」と言った言葉を耳にしても、そもそも言葉や定義的なところはどうなのだろうか。
Wikipediaから丸々持ってくる形になるが…。下記のようになる。

表現の自由とは

表現の自由(ひょうげんのじゆう、英: freedom of speech)とは、すべての見解を検閲されたり規制されることもなく表明する権利。 外部に向かって思想・意見・主張・感情などを表現したり、発表する自由。 個人におけるそうした自由だけでなく、報道・出版・放送・映画の(組織による)自由などを含む。
但し、法が保障する自由は、無制約な決定の可能性を認めるものではない。公共の福祉を侵害したり、他者の自由を侵害する「表現の自由」は認められていない。

>>表現の自由とは

さて、日本国憲法ではどのようにこれを記述しているのだろうか?

日本国憲法第二十一条

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

表現の自由は基本的人権と密接に繋がってる点がある?

超ざっくりした内容になってしますが、表現の自由はなんでもいいというわけでもない。
表現の自由は、一番大事なところでもある、民主政治を支える重要な自由なところであり、自分や自分たちに都合悪いといって、相手に対して意見の自粛や撤回する行為は一歩間違えたら、表現の自由ではなく、侵害行為になってしまうことがある。

そのために、「表現の自由」は制約されている中で「表現の自由」ともいえる内容になっているのが、現在の法規や憲法でも起きていると思う。

例えば、名誉やプライバシーといった点の調整だって、実態は調整してる時点で表現の自由を制約をしつつ、表現の自由を守っている点が大事だと思う。
さらに言ってしまえば、基本的人権があるということは、差別的内容にとんだ創作物の場合。
表現の自由だからといって、「全て許すのか?」ってことになってしまう。
この辺は法規より社会的背景や個人的価値観が絡むことが大きくあると思います。

その辺は色々な意見があるため、却下するとして、ここで世界人権宣言を見ていくとわかりやすいと感じた。(日本もここは批准してます。)

表現の自由及び表現の自由に対する許される制限(第19条)

  1. すべての者は、干渉されることなく意見を持つ権利を有する。
  2. すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。
  3. 2の権利の行使には、特別の義務及び責任を伴う。したがって、この権利の行使については、一定の制限を課すことができる。ただし、その制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。
    (a) 他の者の権利又は信用の尊重
    (b) 国の安全、公の秩序又は公衆の健康若しくは道徳の保護

公共の福祉とは見ていく

先ほどから出てきた言葉ですね。
公共の福祉は見ていくと、中学公民クラスな話のため知っている人は多くいると思います。
しかし、一言で説明すると解釈問題が起きそうだが、これは人権問題と表現の自由と絡んでいくこともあるが、個人的にはこれは重要な役割をしていると思う。

「社会全体の利益」とか「社会生活を営む成員多数の実質的利益」という内容になっていくが、昨今のネット社会で基本的人権を考えていけば、どー考えても無理が生じるのは事実だと思う。
そうなると調整が必要と思うが、その人権として考えた場合、その権利を調整する言葉ともとらえていいんじゃないか?とも感じている。
「社会の構成員の権利」がある以上は、自由や利益の相互的衝突を調節し、その共存を可能とする公平の原理となると…。
超絶ざっくりにさらに言ってしまえば。
基本的人権を例に挙げていくと、これの暴走しないようにするための調整するためのものだと思う。
障害者持っている人がある一定の条件の元行動せざる得ないことだってある。法の下にいくら平等であっても、このような調整をしないと社会は回らないことだってあると思う。
そのようなことでも、人権が制約された人にも還元されるような仕組みだと思う。

公共の福祉とは

公共の福祉とはそれによって人権を制約されるその個人の利益にも還元される全体の利益と認識されている。
(コトバンクの引用)

個人的に見ていく「表現の自由」とは

もはや、ここまで書くと。ここまで書く必要性ある?って自問自答したいところがあります。
なんか炎上しそうで恐いですわ。

いくら、慣習法を制定法にしたわけでもなく。たまに表現の自由の侵害といったトラブル事例というのは、表現の自由自体そのものが曖昧である点が一番大きい。
そのため、表現の自由が侵されたということで、長く戦ってきてる歴史は数多くあると思う。
さらに、これを法律で線引きした場合は、憲法で明記されてる下手すれば「表現の自由」を侵害する形になってしまうこともあるえる。

このような、個人における表現の自由は、ぶっちゃければ…。
自分の価値観。考え方。下手すれば好みから政治思想といったものに依存することが非常に多いと思われる。
表現規制というものは、クレームや法規制と多岐にわたる。その場合は法的観点や言葉の定義からみていく重要性や社会的要素も非常に大きい。

さらに、障害や持病持ちの自分にとって。
その創作物が差別的内容が強すぎたら、どういう風に対応すればいいのか…。
無人警察問題でてんかんはずいぶん色々ありましたが、あのような対応は全体的にみていくと、当事者全員が間違っていたと思う。

そういう意味だと、法的要素・社会的要素であくまで「表現の自由」のみ見ていくと完全にアウトであって、色んな方向や角度で見ていくのが大事なのではないか?というのを感じてしまう。

この記事のトラックバック用URL

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA