「臭いものに蓋」をするのが解決なのか?

2019年11月12日:雑談

「臭い物に蓋をする」という言葉は存在しています。
しかし、私たち日本人は「臭い物に蓋をする」ことで解決したつもりでいるんじゃないだろうかって感じてます。

「臭い物に蓋をする」の語源

そもそも、「臭い物に蓋をする」という意味はいったいなんなのか。ちょっと振り返ってみましょう。

臭い物に蓋をするとは、「都合の悪い事柄を外に漏れないよう隠してしまう」という意味です。
失敗や悪事などの問題を解決しようとするのではなく、あくまでも一時しのぎでやり過ごそうとすることなどを指します。子供がいたずらのあとを隠した、というようなかわいいレベルではあまり用いられず、主に法に触れることを隠していた場合に使われます。また、そうした悪意や後ろめたさからのみではなく、直面した問題から目を背けることにもこの言葉が当てはまります。
ニュースなどでよく耳にする、「企業の隠ぺい体質」などがまさに臭い物に蓋をした結果によるものと言えます。

意味解説ノート:「臭い物に蓋をする」とは?意味や使い方を解説!

問題が起きると『解決』をすることが必要になります。

しかし、問題起きた場合は解決という行為を人を行うのですが、「臭い物に蓋をする」ということで解決をしていないでしょうか?

問題の解決とは

てんかんにおける問題や今は落ち着いているようでもまだまだ難しいところがある、就職差別やそれの影響を引きずる問題。
そして、精神障害者が突然雇用しないといけなくなったとか一時期話が持ち切りになりましたが、法定雇用率でしたか。これのやり方が変わるという話が障害者で今まで精神疾患はカウントしてなかったのに、突然カウントすることになって慌てただけって、オチですね。

先に書いた通り、問題が起きた場合は解決という行為を行う必要があります。
しかし、これを解決というのを本当に行っているのでしょうか。
重要なのはそこではないでしょうか。

問題が起きたならその問題のみ排除してしまって解決と考えるケースがあります。
しかし、それは正しいことでしょうか。
状況のみではその排除することは正しいかもしれません。

しかしながら、臭いものに蓋をするだけで、ちゃんと解決させているのでしょうか。

臭いものに蓋をして解決させる

本来の問題の本質から避けてしまいお茶を濁すような形で解決することがあります。
よく行うことは組織やコミュニティーといった場ではよく行うことは、問題の本質を伝えたりしないといけませんが、それを行わずに人であれば問題が起きたら『臭い物に蓋をする』という形で本質を見ないで、その人を排除なりしてしまうこともあります。

しかしながら、それは正しいことでしょうか。
それによって、排除したことは正しいことなのかってことになります。
もし、正しくない行為やマイナス効果しか生まないことなら、本質をちゃんと見ないでいて、単に排除することで解決したと思い込んでいるだけでいいのでしょうか。

最近の若い世代や今は通じないかもしれない

「なぜそのように解決したのか?」「なぜそのように対応したのか?」という具合に臭いものに蓋をすることや、お茶を濁すように対応をしてしまって、それで解決したと思うのは、目の前の問題から解決したように見えて、実際はしこりが残す結果を生んでいる形になってしまいます。
さらに、今の若い世代は「それでは抜本的な解決になってない」と言っていく傾向やゆとりと世間から散々言われてしまった、ゆとり世代やその後のさとり世代という点や、最近の20代やこれからの世代は問題をそのように解決させることは好まないように感じます。

表現の自由問題で宇崎ちゃんのポスター問題も結局は同じ行為をしてますが、実態はデータを取ってから判断する内容を感情で押し切ったのが現実と半分思います。
たしかにデータをとってもいたような気がしますが。それは後日になってからです。

「臭い物に蓋をする」は何を生むのか

問題なのは「臭い物に蓋をする」側は何も問題ないし、逆に解決したと思っているだけだと思います。
しかし、これによって蓋をされた人たちは解決しているのでしょうか。

重要なのは、根本を解決してないに等しく、実態は『その人』や『そういう人たち』を追い出したことによって、結局は雑草でいうなら草取りでも根っこを取ってない状態です。
YES/NOで済ましてしまう海外なら、ストレート直球で言ってしまうことがあるかもしれません。日本は今までお茶を濁す行為で解決していく行為が多かったのではないか?と思います。
特に障害者や病気を持つ人ならなおさらです。

じゃあ、また現れたら、蓋した人は『己自身が正しい』『自分たちの定規が正しい』とそれのみでしか図らなくなり、結局は同じやり方を続けていく。
そうなると、複数人仮にその場にいた場合。
人によっては疑心暗鬼を生む人は自動的に生まれてしまいます。これが個性ですから。

今後は、それが通じなくなっていく世の中になっていくということは、これを継続させてしまうと多様性や幅広い人材といいながら、多様性を認めない結果を生んでいる状態です。
悪い言い方をすれば、言っている人ほど受け入れることができず、言ってない人ほど、意外と受け入れてしまってるってオチがあります。

さらに、排除という言い方は悪いですが、された側は結局手を差し伸べない限りは、『何が理由で何がいけないのか』という点で問題や考え込んでしまい、どんどん萎縮やふさぎ込んでしまい、「排除した側はそんなことを思っていない!」だの「そんなことを言ってもいない」という具合になってしまいます。

最後には。
『好きにすればいい』となっていき、『じゃあ好きにします』といっていきます。
あとは…なぜか謝るか黙り込むぐらいかな。

ライブ配信で何度か話したことありますが、よく障害者や病気の世界では当事者・第二者・第三者とあって、どうしてもコミュニケーションでも解釈問題や通じる・通じない。見方の問題って起きます。
当事者に近い第二者と全然知らない第三者でも同じです。
結局、好きにすればいいって言葉はコミュニケーションや問題から逃げているんですよね。
片方がよくコミュニケーション障害と言いますが、私は双方がコミュニケーション障害だと思いますよ。コミュニケーションは一人では成り立たないのですから。

ライブ配信先:すずちゃんねる

問題なのは、円滑に物事を解決していくってことが大事であって、コミュニケーション能力という言葉がありますが、臭い物に蓋をするだけでは結局成り立ってません。
まずは、理由が必要です。
そこから解決を図るなり、排除を進めるなりすればいいんです。

そうでないと、今後の日本は人口が減っていくということは人の選り好みができなくなります。
だから、これで生むのはマイナスしかありません。
逆に問題行動ってなった場合は。お咎めや勧告の一つや二つ送り込んでからやるのがいいと思いますけどね。
それからでも遅くない話です。

社会構造やグローバル化の影響

問題があるなら、きちんと解決することが大事というのが社会的にも今の情勢を見ていくと、結局社会情勢が反映してしまっているようにも感じます。

そして、これからはどうしても解決することができなかったり、目の前の問題を蓋をして解決したように見えて、逆に見てしまえば問題を先を送りすることにも見えてしまいます。

そのため、今後は解決させる内容は解決させることや、一言ちゃんと添えることも大事だと思います。
そして、障害者差別問題と言った内容からいじめ問題から認知関係に普段の生活でも同じです。
結局、問題の本質に突かないでその場だけ取り繕っているだけだと思います。

これからは抜本的解決をしていかないと、問題を解決していかなくなっていき、ツケを溜めていくだけかもしれません。

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